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何でも写真集〔保存版〕

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紅葉の時期もまもなく終了

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  有松町とおかげ横丁

2017-03-18
 有松山車会館です。この高さの山車を入れる収納する倉のようです。中の山車は見たことがありませんが想像がつきます。詳しい話はわかりませんが山車は3種類あるそうです。中でも金龍町の信功皇后車は明治6年に有松で作られたそうです。山車には車輪があり「からくり人形」を乗せているようです。隣の写真は伊勢神宮前のおかげ横丁の裏側にある家です。とても歴史を感じる建物ですが右端の写真の家は近代的で見比べてみると対照的な感じですが奇妙に調和がとれてたように思いました。

  有松町の蔵

2017-03-11
 有松駅の看板です。隣は服部家の門前に立ってる案内板です。服部家と聞くと思い浮かぶのは江戸城の半蔵門、伊賀忍者かなとも考えましたがそうだここは名古屋だから信長公の小姓衆に服部小平太という人物がいました。私の記憶が確かなら今川義元公を最初に見つけ戦ったのが信長公の小性衆でした。ひょっとしたらその方の子孫の方かなとも思いました。そして右端の写真は有松の街並みです。有松町は今でも染物の街として有名です。またこの古さを感じる家もディサービスの会場になっているものもあるそうです。江戸時代までこの道は東海道でした。今の国道と比較するのも変ですが本当に狭いですね。

  桶狭間古戦場公園

2017-03-04
 桶狭間といってもかなり広い範囲のところでした。最初の写真は桶狭間の一部分でほぼ頂上に近い場所のようです。今は坂の途中を平らにして学校があったり駐車場になっています。真ん中の写真ですが拡大すると意味が書いてあり「なんじゃもんじゃ」という名前です。右端は桶狭間公園に保管されている沓掛城の石です。他にも織田軍の砦の石もこの公園に飾られていました。砦には1000名に満たない兵士が今川軍と戦ったら全滅するのがわかっていながら砦を守っていたのです。当時の武士や兵士たちはどんな気持ちでいたのでしょうか。

 桶狭間戦場跡

2017-02-25
 日本の歴史で絶対避けて通れない有名な桶狭間の戦いの古戦場の写真ですです。今は桶狭間公園として残っています。今川義元ひきいる30000万の軍勢にわずか3000人に満たない織田信長の軍勢が今川軍を破ったという戦いに日本中が驚きました。この戦いで信長公の名が全国に広まったということです。それまでの信長公は身内にまで「うつけもの」と呼ばれていたようでこの戦いを機にただものではない大変な大将と見方が変わったようです。それにしても戦国武将はどこで勉強していたのでしょう。一般常識やお茶、歌道、蓮歌、専門的な建築技術設計、都市づくり土木工事や治水工事などをどこでどのように勉強していたのか考えると考えるほど不思議です。

  名古屋の古戦場跡

2017-02-18
 今は住宅地の中にある桶狭間公園の古戦場跡です。この地に名古屋の織田勢を討伐するのに向かっていた今川軍(総勢30000人)の本隊の約6000名位が陣どっり豪雨のため雨宿りしていたそうです。織田軍はまともにぶつかるとひたまりも有りません。信長公は最初から横から突っ込み奇襲攻撃を考えていたようです。崖の上に陣取っていた織田軍も今川勢から丸見えだったようです。でも今川方は織田軍は仕掛けて来ないと思っていたようです。今川方の半分にも満たない軍勢だったので考えられなかったようです。織田の軍勢は豪雨と雷、稲光の中一気に駆け下り攻撃をかけ今川勢を慌てたせました。絶対攻めてこないと思っていたすきをつき義元公の首を取りました。織田信長公のこの奇襲戦法は有名ですが信長公は後にも先にも奇襲攻撃はこの一戦だけだったそうです。
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