今昔写真集 大楽毛
行事
2014-12-05
夕日の大楽毛海岸
2014-11-27
命の水を運ぶ
2014-11-16
昭和25年頃に32戸の電波の官舎が出来上がりましたが井戸を
掘っても鉄分を含んだ赤い水しか出ず飲料水に出来ませんでし
た。そこで大楽毛4丁目の故細沼登治さんが電波地区の住人の
ために自分の家の井戸からポンプで毎日3時間もかけ手作業で
水を汲みあげて木の箱に入れ馬車で(冬はソリ)3年間1日も
欠かさず届けていた時の写真です。私が平成4年に「当店のみ
にこみ紙」に掲載するのに取材でお聞きした話です。「電波地
区の方々が待っててくれると思うと少しも辛くはなかった」と
話してくれました。当時は単純にお仕事だと思っていましたが
困ってる人のためにと黙々と命の水を運んでいた大楽毛の大先
輩、故細沼登治さんのお話です。
海
2014-11-23
50年位前、まだ西港を着工する前の新富士海岸は駅のすぐそば
まで波が来ていました。汽車の窓から見ると線路まで波が来るの
ではと思ったものです。海岸にはトーチカも見えました…。
当時としても珍しい着岸した流氷の写真です。この時代は遊ぶ場
所も少なく市民は新富士海岸や大楽毛海岸まで足を延ばし魚釣り
や砂遊び、焚き火でイモを焼いたりして楽しんだものです。
小学校
2014-11-01
大楽毛小学校の写真です。私は終戦から2年後位に入学しました。
先生は2名で教室も2つ3学年が1つの教室で勉強していました。
(3年生の頃に2学年づつ3学級に)戦後、間もなくの入学でした
ので皆んなお金も物もなく食べて行くのが精一杯の時代で総貧乏
で服など継ぎはぎだらけでしたが恥ずかしいという気持ちは全く
有りませんでした。勿論ランドセルもなく風呂敷や布の袋にノー
ト、筆記具など入れ学校に行ってました。消しゴムは粗悪品で消
すと字が消える前に紙が破れたものです。鉛筆削り器などは勿論
なくてナイフや安全カミソリで鉛筆を削っていましたが手や指を
切る子もいなかったです。私が卒業の時は18名で全校生徒は1
16名と記憶してます。
今昔写真集 武佐
炭鉱住宅街の地域共同浴場
2014-10-22
太平洋炭鉱の従業員社宅
2014-09-25
大楽毛
大楽毛物語
NO.1 (2014-02-18 ・ 390KB) |
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